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(jp/en)


画像と風景のあわい 

近藤亮介

一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のように、きちんと身じまいを正して、静止しているかのようである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇ってゆく透明な運動の霊が見える。

三島由紀夫「雨のなかの噴水」
(『新潮』1963年8月号)

本展のタイトル「庭園|POTSDAM」は、意味過剰である。改めて言うまでもなく、モチーフとなっているポツダムは、ドイツ産業革命を代表するサンスーシ宮殿の庭園や、ポツダム宣言が発表されたツェツィーリエンホーフ宮殿を含む、歴史的に重要な土地である。だがポツダムは、極東の一個人の人生にも特別な意味をもたらした。体操の日本代表選手であったY氏は、1936年、ベルリン・オリンピック出場の際にポツダムを訪れた。世界から孤立してナショナリズムに傾く日本の期待を背負った青年は、威厳に満ちた宮殿と庭園を見て、強国への憧れと不安を覚えたことだろう。

体操は、個性を重視する近代スポーツの中で異色な存在である。体操が要求するのは規律正しい演技であり、選手は身体を文字通り「器械」として扱わなければならない――自我を滅し、他者・集団の意思に委ねられた匿名の肉体は、「従順な身体」を表象する。したがって体操は、軍隊教育やマスゲームにも見られるように、全体主義国家において枢要なスポーツと見なされてきた(1) 。また、当時の体操競技は屋外で行われていた。空調や照明が管理された体育館と異なり、巨大なスタジアムで繰り広げられる体操は、人間の身体と大地=重力との関係――より厳密に言うならば、重力の支配から逃れられない身体の宿命――を浮かび上がらせる。つまり、体操する身体は、国家権力と重力によって二重に拘束されている。

Y氏の写真アルバムには、「ポーツダム風景」と題されたページにサンスーシ宮殿の庭園で撮影された6枚の写真が収められているが、そのうち4枚に噴水が映っている。噴水は、幾何学式の庭園――絶対王政=権力の象徴――の中で、常に重力に抗いながら美を装っている。Y氏は現地でその姿に自分を重ね合わせたのだろうか。一方、戦後にY氏がアルバム写真を見返すとき、その視線はやや冷めている。彼の付したコメントは、場所と出来事とのあいだに生じた強力な意味作用によって、ポツダムの風景(写真)が上書きされたことを的確に捉えている。かつての専制君主の離宮が、今では日本の戦後を決定づけた場所として見られる。たしかにY氏もポツダムを離宮と認識していたに違いないが、1936年の彼はもっと自由に眼前の風景を眺められたはずだ。そして、このような主体的な視線を明らかにするべく、画像に纏わりついた意味を剥ぎ取るのが、三宅の仕事に他ならない。

三宅が題材に選ぶ写真は、誰が・何を・なぜ・どのように撮ったものでも構わない。彼女はそこに潜む「絵画的な像」にしか関心がないからだ。それは、被写体の過去や質料に無関心なまま、表面的な面白さを追求する態度であり、ともするとインスタグラムを想起させる。しかし実際には、画像作成プログラムを異種交配させながら、画像の昇華点を探る点で、三宅の作品は現代に溢れかえる画像と一線を画する。写真を絵画へ一旦還元するその独特な手法は、写真の客観・明示を解体するだけでなく、同時に絵画の情動・物語をも排除することで、画像の条件そのものを問うているのだ。そこにあるのは、所記を孕む以前の画像であり、だからこそ誰もが主体的に見ることを促す、一つにして無数の風景である。

つまり、展覧会名とは対照的に、三宅の作品は意味不足である。まさしくこの点において、彼女はY氏が見た(あるいは見なかった)風景を私たちに差し出している。

(1) ベルリン・オリンピックにおいて、ドイツは体操の全9種目中、6種目で金メダルを獲得した一方、日本は惨敗した。

個展「庭園|POTSDAM」のためのテキスト 2019年5月26日

 


描写重ねた「陰陽の痕跡」

林田新

京都市下京区のギャラリーhakuにて、三宅砂織の個展「白夜 White Night」が12月30日まで開催中である。本展では、これまで三宅が制作してきた「Abstract Dislocation」と「The missing shade」の2つのシリーズから作品を選定し、展示を行っている。
三宅が制作の出発点とするのは、誰かが撮影した一葉の私的なスナップ写真である。彼女は光の痕跡である写真を透明フィルムに描き写うつし、他のフィルムや立体物を重ね合わせて感光紙に露光することで作品を制作している。写真をもとに描かれた三宅のドローイングは白黒 / ネガポジを反転させ、その影を感光紙に定着されることとなる。写真を描きうつした筆跡のマチエールは陰陽を反転させて焼き付けられ、光と影の階調へと置換される。感光紙上に結像したそのイメージは、写真をモチーフにしている点において具体的な現実に由来するものの、フィルムの重なりや露光時間の調整によってニュアンスを与えられることによって、幻影的とでも言うべき抽象性を獲得している。
三宅は光の痕跡である写真を自らの手で描きうつし、陰陽の反転を経て、光と影へと差し戻していく。彼女は対象をただ直接的に描写するのではなく、描写という行為自体を制作プロセスのなかに積み重ねているのである。ここで彼女が心を砕いているのは、描写行為を自明なものとするのではなく、複数のプロセスを積み重ねることで、描きうつす行為自体をメタレベルへと包括し、描写行為の根本を問うことなのである。

日本経済新聞 夕刊  2018年12月19日

 


「目は口ほどに物を言う」

浅井ゆき

目は口ほどに物を言う。頭の中と違うことを、耳当たりがいい言葉にして口から発したとしても、その時あなたの目は嘘をついていない、と思うことがある。写真とは嘘をつかないその目が捉えた一瞬のものである、と言えるならば、その人の視線の軌跡に一番近しいものと言うことができるであろう。そして、あなたと私のこの世界の見え方について、最も近い状態で共有することができるメディアであると言えるかもしれない。とはいえ昨今のSNS流行りで、タイムラインに流れる華やかな写真たちについて同様のことが言えるかというと、答えは残念ながらノーであろう。人からの視線を意識することのない写真は、携帯電話のアルバムの中に残る、SNSで更新対象にならなかった写真であり、少し前ならどこの家庭にでも一冊はある、写真アルバムの中に溢れた家族や恋人の間でのみシェアされるインティメイトな存在である。

三宅砂織の作品は、こうした公私の間を揺らぐインティメイトさを漂わせている。フォトグラムの作品を制作するようになってから、彼女の制作過程で重要となるファクターはまず、既にこの世に存在する写真である。自ら撮影したものも初期作品には見られるが、家族や全く知らない第三者のものまで、そこには誰かの視点がまず存在する。ただ、注意深く彼女の作品をひとつひとつ見ても、正面を向いてピースサインをする人が写っているような、撮影者と被撮影者との視線が交わるものが意識的に避けられていることに気づく。しかしながら撮影者の一方通行のこの視線こそ、ファインダー越しに目線の先の人と目が合い、判断を鈍らせることのなかった、純粋な視点が留められている。彼女は慎重にそうした写真を選び、それらを絵筆でトレースして描き(!)、コラージュ等の手法を加え写真というプロセスを利用して作品化しているのである。つまり目の前で見ているこれらの作品は、一見写真のようでありがならも、三宅の手で描かれた絵画、の影なのである。

現代ではピンとくる人が少なくなっているかもしれないが、写真現像は暗室で明暗が反転した作業を行う。写真のフィルムを印画紙に焼き付ける時、黒い部分は影として印画紙上では白い部分となり、陰陽が反転する。つまり、三宅は手元の一枚の写真を元に、白黒反転させたヴィジョンを頭の中に持ち続けながら、目の前のフィルムに向かい筆を動かしているのだ。その時、三宅の頭の中と彼女の網膜に映る図像にはズレがある。そして彼女は目の前の二次元のフィルムに向かい、写真に写されている物事を追いかけるというよりは、図像としての白黒の世界と格闘する。それらが現像された時、文字通りブラックボックスから出てきた作品は、暗室である程度コントロールされて描かれたにもかかわらず、作家にとっても初見の存在となるのである。興味深いのは、モチーフとなる写真は誰かの視点というレイヤーがあり、その上に白黒反転させたフィルム作業というレイヤー、現像という完全コントロールの難しい、ブラックボックスとしてのレイヤー、という自らのコントロールを阻む要素の三層構造となっている点である。作品に漂う物語性とは真逆に、作家のこうした制作過程にストーリーテラーとしての側面は全く無い。むしろ、彼女はマジシャンのようにブラックボックスから出てきた作品が、本人の意思とは関係なく物語を帯びることを楽しんでいる。そして、その物語性を帯びた作品を目の前にした私たちは、そこからさらに作品に物語を読み取ることになるのだ。ここでは作品が既に5層構造になっていることに気づく。

さて、少年少女のころゲームの世界に少しでも触れたことのある人なら、ロールプレイングゲームを想像してみてほしい。ゲームをプレイする私は主人公勇者で、村の中で出会う人は村人Aであり、商人Aであり、それ以上でもそれ以下でもない。ゲームが終了するまで主人公勇者を中心にゲームが進行する。村人Aの身の上に何が起こっていようと知る由もなければ知る術もない。これらは現実のこの世界でも同様で、街ですれ違った人やコンビニの店員はいずれも他人であり、私という存在が思考の中心となり世界を捉えている。当然ながら精神上は世界の中心となり得るかもしれないが、私という存在がどうであれ、世界は私たちが思うようには動いてくれない。村人Aも商人Aもそれぞれに一言で語れないドラマティックな人生があり、彼らの視点からしたら、勇者は旅人Aでしかないだろう。近年オンラインゲームでは主人公ABCD…の複数人が同時にプレイするといった現実世界に近い状況のゲームができるようになった。仮想世界のロールをプレイしながらも現実世界同様に多様化する状況に対応することになり、コントロールが難しくなってきている。

この度の三宅砂織の個展では、初期作品から近作まで人も国も様々な写真を用いた作品たちが一堂に会すこととなった。勇者Aと旅人A、村人Aに商人Aが一堂に会す、と言うとふざけすぎていると言われるかもしれないが、本来隣り合うことのなかった者たちが偶然にも同席し、空間を共有することの奇遇、がすぐそこのカフェでも同様であることに気づき、その一瞬を留めるかのように彼女はこれらの影を作品として焼き付け残す。残された影は作家の手を離れ、観る者によって物語を加味されながらこの世界を歩き出すのだ。

個展「白夜」のためのテキスト 2018年11月30日 

 

"Eyes speak for themselves"

Eyes speak for themselves. However one may candy their words with flowery rhetoric contrary to their intent, their eyes give them away. If photography is the art of accurately documenting what the truthful eye sees, it could be said that a photograph is a record of the photographer's gaze. Through a picture, we can share our world as we see it with others. However, in a world where flashy photos torrent through SNS timelines, could the same be said? I think not. Pictures buried deep in data folders, old photo albums everyone has at home, such photographs that are not meant to be exposed only shared within the family and lovers are the most intimate.

Saori Miyake's pieces show such an intimacy gently oscillating between our inside and outside. The most crucial factor in making her photograms are pictures that already exist. In those pictures, there exists the photographers' gaze. Though she has used pictures taken by herself in her early works, most are by family or some unknown person. Upon careful examination of her works, one will notice that there are no one making V signs nor any hint of eye contact between the photographer and subject. Here, the observer can see the pure gaze through the eyes of the photographer unaltered by the subject's glance. Miyake carefully selects such pictures and traces them with a brush, arranges them by collaging and such and finally sets them through photographic processing. Her works seem like photographs at first but are actually shadows of paintings by her.

Photographic processing in the darkroom reversing negatives is something of the past for most of us. Negative images on film are exposed on photographic paper reversing their contrast, black details on film become white on the paper. Miyake moves her brush upon the film imagining an inverted final image. There is a discrepancy between the retinal image and the image in her mind. Standing before the film, she wrestles with the black and white scene rather than following what is pictured. Though work in the darkroom is controlled to an extent, she only gets her first look when the image emerges from the literal black box. Her works consist of three layers of obstacles hindering complete control. The first is using pictures taken by other people, second is using negatives, and finally using an unpredictable darkroom technique. Miyake doesn't act as the storyteller here. She instead assumes the role of a magician pulling her pieces from a black box enjoying the process of the pieces taking on a narrative air irrespective of intent. We further feel the story from her pieces and then suddenly realize that we have entered a 5-layered world.

If you have played video games in the past, try remembering a role-playing game. The player is the hero, and who they meet at the village are Villager-A, Shopkeeper-A and so on. What's happening to the Villager-A while you are away? The plot always revolves around the player, and there is no way and reason to know. This applies to the real world we live in. The person who walked past you, the nameless clerk at the convenience store, all other individuals are of course not you and you will probably never know about them. Sounds like you are the hero? Sadly, even though you "can" be at the center of your world, the world seldom heeds this. The Villager-A, Shopkeeper-A have their own lives, and from their viewpoint, the hero is only another Traveler-A. In that sense, current multiplayer games emulate our bi-directional social interactions like in real life. This adds a layer of complication and leaves our control.

In this exhibition, Miyake shows a diverse collection using a variety of pictures of people and countries spanning her early to current pieces. This might be likened to the meeting of subjects that were never intended to meet, as if Hero-A, Traveler-A, Villager-A, Shopkeeper-A meeting in one place, a miracle occurring everywhere, even at the small cafe on the corner. Miyake captures the instant and fixes the shadow. The shadow then leaves the artist's grasp in the observer's narrative and begins its first steps.

30 November, 2018   text for the solo exhibition〈White Night〉

 


作家解説

五十嵐 純

三宅砂織は、カメラを使わずに、描いた画像を直接印画紙に焼き付けるフォトグラムの手法を用いて作品を制作しています。透明なフィルムに黒い絵の具を使って絵を描き、それらのフィルムを何層かに重ねて焼き付けます。元となる画像は蚤の市で手に入れた写真や、知人や作家自身が撮影した写真ですが 、具体的な被写体や出来事を読み取ることを意図しません。イメージをなぞることで、その画像の持つ地理的、歴史的、文化的なものを作家が読み取る作業でもあるといいます。

初期には、大小の点を結び星座のような図像を描く作品や、少女や布を浮遊感ただよう線で描いた作品を制作し、次第に写真を元にした具象的な表現へと作品が変化します。 個展「imagecasting」(2010年) のタイトルからも、 イメージを型取る (casting) という、写し取ることとは異なるアプローチが見て取れます。写真をコラージュし、トレースを行い、ドローイングを加え、焼き付ける。この複数のプロセスを通して、イメージをろ過させると同時に思考し続け、最終的にイメージをつかみ取ろうとします。そして2011年の震災以降、作品はより写実性を高め、元になるイメージも複数の写真で構成することをやめました。 

近作のシリーズ〈 The missing shade〉(失われた影) は 、18世紀の哲学者 デイヴィッド・ヒュームの人間の認知に関する考えからとられています。特定の青色を見たことがない人が、その隣に位置する色の濃淡からその色の欠落に気付き、想像力で補うという考え(the missing shade of blue)は、あるイメージを見ることによって、それまで蓄積された様々な経験や記憶と結びつき、新たなイメージや既視感をもたらす想像力のあり方とも重なります。 

光によって描かれる三宅の作品は、フィルムに与えられた筆致や絵の具の質感を反映させながらも、物理的な厚みのない、いわば完全な平面として存在します。同時に、焦点のズレや重ねられた透明なフィルムが作品に絵画的な空間や奥行きを与えます。質量を持たず奥行きのある風景とは、私たちの記憶や脳が生み出すイメージそのもののようです。それゆえに三宅の描き出す風景は、視覚を刺激し、豊かな想像力を生み出すきっかけとなるのです。

Art Meets 04 冊子 2017年3月31日